一貫して輝政であったとされるが、吉田城主時代は照政である。
口数の少ない寡黙な人物だったといわれる。
妻の侍女が「当家が繁栄したのも姫君の甲斐があってこそ」と発言したのを、妻の前では叱責しておき、後になって、その侍女を呼び寄せ「自分の出世には多分に妻の七光りによるところなのは理解しているが、それを聞いて彼女が付け上がり、夫婦仲が悪くなっても困るから妻の前では、それを言うのは止めて欲しい」と言った。
身長が低いのがコンプレックスであったが、それを酒の席でからかわれた際に、即興の歌と舞で軽くいなした。
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家康から命じられた、岐阜城攻めで、福島正則と激しい功名争いを演じたが、実際には一番乗りの手柄を上げたにも関わらず、あっさりと功を譲って、同時に城を落としたことにした。
家康の娘・督姫を娶った際、伏見の徳川屋敷を訪れた輝政は「長久手の戦いでわが父を討った永井伝八郎なる者はこの席におりますや否や?」と聞いた。家康が「末座に控えています」と答え永井を輝政の前に進ませると、輝政は「父の最期を聞かせてほしい」と頼んだ。永井が物語りした後、輝政は「この者の身上はいかほどにござりまするや?」と聞き、「5000石にござる」と答えると、輝政はみるみる不機嫌な顔つきになった。一同は輝政が仇討ちするのではと肝を冷やしたが、輝政は「父の首はたったの5000石ですか…」と嘆息したという。この件が直接の原因かは定かではないが、永井家はその後7万2000石を拝領する事になった。